ネット購入。新古品だったかな。面白かったですが索引もあればなおよかった。
書名:神仏習合
著者:義江彰夫
出版:岩波新書(1996年7月第1刷)
《目次》
序 巫女の託宣 ―誰が平将門に新皇位を授けたか―
/巫女の託宣と新皇将門/本書の課題/
第一章 仏になろうとする神々
1 伊勢・多度大神の告白
/仏教帰依の願い/神々の願いをとりこむ仏教/
{・・・すなわち、神宮寺とは仏教に帰依して仏になろうとする神々の願いを実現する場として成立した寺であった。そして、主に遊行僧らの手によってその核となる部分=神像安置の堂宇が建てられることから出発したのである。}
/地方豪族層の願い/
2 神宮寺確立の過程
/神宮寺確立への道と王権の関与/
{・・・神宮寺出現の発端となる土地の大神の神身離脱から本格的伽藍をもつ寺院となるまでの道は、地方豪族の先端に現れた神祇信仰の苦悩と仏教による打開を、王権の支持を取りつけながら、周辺の神々やそれを背負う豪族やその配下の人々をとりこむ道でもあったから、それなりの時間を必要としたのである。}
/神宮寺への期待/神宮寺の大寺院への編入/
3 社会的背景を探る
/神宮寺の二つのタイプ/神仏習合の原点/神祇信仰は消滅したか/神宮寺出現以後の神社と寺院/
4 律令国家の神社編成のゆきづまり
/神祇官制度をめぐって/ゆきづまる神社編成/神宮寺の出現のなかで/幣帛班給崩壊への本格的第一歩/
{諸国の神々の仏教帰依と神宮寺の出現が歴史の必然であったとすれば、いかに朝廷が神宮寺建立に関与し、それを担う地方豪族たちの心を捉え直そうとしても、それだけで、律令国家の支配が再建されたわけではなかった。律令国家は、これによって租税収取の実質的手立てを失い、といって、律令的官僚制そのものを地方社会が内的に理解できる段階に到達していたわけでなく、これに代わる有効な手立てを用意できるに至っていなかったからである。
朝廷は、神宮寺が確立する時代はむろん、それが大寺院の別院となって安定した勢力となってゆく九世紀の後半まで、一方で神宮寺下に積極的に手を貸しながら、他方で一貫して祈年・月次・新嘗祭にさいし諸国有力神社の祝に神祇官から幣帛を班給するという政策をとり続けた。・・・}
/国家の新たな対応/幣帛班給の全面的崩壊/
第二章 雑密から大乗仏教へ
1 空海は何をもたらしたのか
/空海の悩み/努力が実をむすぶ/日本宗教史上の巨人、空海/
{このようにみてくれば、空海とは、神々を仏教に帰依させるべく神宮寺を建立した満願禅師などの遊行僧の成果を継承し、彼らが願いつつ充分果たせなかった雑密の大乗密教化と王権による庇護と王権擁護という課題を実現したわけであり、まさに日本宗教史上の巨人というにふさわしい。
では、空海は当時の日本宗教におこっていた根本的な地殻変動、神々の神身離脱と仏教帰依と神宮寺建立という動きに、なぜ、大乗真言密教の将来でなければ応えられないと考えたのだろうか。この問いに答えるには、そもそも、なぜ、この時代に神身離脱から神宮寺建立までの動きが全国的に生まれるに至ったのかという問題から考え直さねばならない。
つぎに、日本で王権レベルに初めて仏教が摂取されるときの事情から見直してみよう。}
2 仏教受容と密教による再編成
/大和王権にどううけとめられたか/仏教が急速に広がった理由/王権の神仏/
3 地方社会への広がり
/村々の祭りのありさま/共同体所有と村長/豪族支配と律令国家/律令国家と幣帛班給/村の構造的変容/私営田領主の苦悩/仏教による救済を求めて/
{・・・すでに述べたように、仏教の根本は、何よりも、物や人間に対する欲望に人間の罪の源泉があり、罪を償うためには苦行によって欲望の根を断ち、その世界から解放されて悟りの境地に達することこそ究極の目的である、という教説にある。この考えは、小乗仏教から大乗仏教に発展し、さらに密教へと展開しても、根底にすえられている。私有することを共同体の神と村人に対する罪と感じている当時の地方の豪族や村長らにとってみれば、私有する苦悩を正面から問題とし、それを根本的に打開する道を提示しているゆえに、神の身すなわち神祭りを利用した支配をしてきた自己を払拭して、仏教に帰依してそこに救いを求めることとなるのである。
しかも、大乗系仏教は、ブッダの教えの、贖罪のための苦行と悟りという究極の課題を出家した僧侶の課題に限定し、一般在俗者は、この僧侶を供養し布施を施せば、それによって贖罪と救済が保証されるという論理を持つに至っている。つまり、心に罪の意識を堅持して、仏や僧への供養と布施を行ない続けさえすれば、実際には、いかなる所有と支配の罪を犯しても帳消しになるという構造を内包していたのである。私的領主化し始めた地方豪族や村長らにとって、まったく好都合な論理と価値観だった。彼らがこぞって仏教に帰依したのは、日本に伝来した大乗系仏教がこのような論理的構造を持っていたからなのである。}
/密教の起源/雑密から大乗仏教へ/
4 王権側の論理と大寺院の対応
//王権と地方豪族たち/私的領有を支える神宮寺/密教で覆われてゆく南都北嶺/
{・・・この時代、仁行(じんこう)・恵蕚(えがく)・円載(えんさい)・恵運(えうん)など多くの僧もまた唐に渡り、顕教とともに密教をもたらして、天台・真言とともに古来の南都寺院に入り、あるいは安祥寺をはじめとする諸寺院を新たに建立して大乗密教をひろめていく。こうして平安時代前期の九世紀末までに、日本全土の寺院や神宮寺は、東密・台密を中心とする大乗密教で覆われることとなった。奈良時代後半に始まる神宮寺を求める地方社会の地殻変動は、約百年の歴史を費やして、日本社会全域を密教で覆うという事態を生みだしたのである。・・・}
第三章 怨霊信仰の意味するもの
1 御霊会とは何か
/御霊の登場/御霊会の生成過程/御霊会の様相と意義/御霊をなだめようとする朝廷/御霊会を生む社会的背景/
2 道真の怨霊をめぐる説話
/発展形態としての菅原道真の怨霊/道真、時平の命を奪う/清涼殿に雷を落とす/日蔵、冥界で道真と醍醐帝に会う/
3 反王権のシンボルから王権守護神へ
/謀叛を支える論理に/北野社の創建から王権擁護の神へ/八幡・天神と結びつく清和源氏/その後の怨霊信仰/
4 怨霊信仰をもたらした社会的背景
/宇多・醍醐朝の土地・租税改革/
{・・・かくして朝廷は、宇多の治世より、右の動きを法令をもって厳しく掣肘するとともに、私営田領主化の動きをそっくり全部王権の基盤に組み入れる道を模索し、その路線を継承した宇多の子醍醐天皇の下で、902年(延喜二年)、一連の太政官符を発して、富豪の宅・私財や私営田の上級貴族・大寺社への寄進の認否を国司の裁量に委ね、それをテコとして、国司の私営田の公的編成を可能にする道を開いた。この結果、国司は王権認可のもとに、伝統的郡司の行政と権威の実を奪い、それらを国衙に集中しながら、この強化された権限を最大限活用して、貴族・寺社への寄進認可を最小限にとどめ、私営田化しつつあった諸国の田畠全般を、順次公領田畠として再編する道を歩むようになった。そのさい私営田を公田に編成する手立てとして生まれてきたのが負名(ふみょう)である。実際に土地を経営する者が国衙に対し納税を約束した田畠の全体に誰々名(みょう)という名をつけ、毎年その田畠総面積に応じた租税(官物・万雑公事)を出しさえすれば、経営の内実は名を負った者(田堵(たと))の自由に委ねられるという制度であった。・・・}
/王朝国家の生成/王朝国家統治の展開と武士/将門の乱と道真怨霊/王朝国家の成長と武士・寺社/
{・・・かくして、これ以降武士たちは、中央で武官の地位を確保し、地方では鎮守府将軍や国司を歴任しながら、王権を支えるとともに、滝口武者はむろん、清和源氏の祖満仲(みつなか)の藤原摂関家への臣従、藤原秀郷の子千晴(ちはる)の左大臣源高明への服従、満仲子息の摂関家への祇候というように、天皇・皇族・上級貴族の私的従者となって政争の武力解決を担うという形で社会的地位を公的に高め、その中で、地方勢力を内々主従制的に編成して、実力を蓄えるという道を辿るようになった。
王権の中に食い入りながらゆっくりと勢力を蓄えてゆくというやり方は、武士のみならず、九世紀以来自立の方向を辿っていた密教寺社勢力にも、大きな作用を与えた。彼らはすでに、密教の教理で、世俗の王権を大日如来に三世にわたって服属することを誓った降三世(ごうさんぜ)大王に比定して、王権に対する聖権の優位を主張してはいたが、九世紀の神宮寺が社会レベルで王権に依存せざるをえず、密教で武装された怨霊信仰が、醍醐を死に追いやり、将門の乱を正当化しても、王朝国家を打倒できないことを知るに及んで、世俗レベルでは本来兼備していた王権擁護の面を全面に出し、王権の精神的支柱であることを強く掲げるようになった。この結果、護国の思想としての法華経と天台宗の勢いは真言宗を上回る程に回復し、比叡山は顕教と密教を共に具備した王権守護の霊山となっていった。}
/王朝国家の完成と怨霊信仰/
第四章 ケガレ忌避観念と浄土信仰
/ケガレ忌避と浄土信仰の発達/
{御霊(怨霊)信仰とは神仏習合の第二段階を象徴的に示すものであった。そして王朝国家は、同時に、さらにすすんだ神仏習合の諸問題に逢着した。九世紀から十世紀の間に発達してくる、王権の世界でのケガレ忌避観念の肥大化と、阿弥陀浄土信仰の日本的論理化である。・・・
・・・他方、阿弥陀浄土信仰とは、いうまでもなく極楽浄土に住むという阿弥陀仏をひたすら信仰して、南無阿弥陀仏と念仏を唱え、没後極楽に往生することを願う信仰である。鎌倉時代には、法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、一遍の時宗など、宗派的発展を遂げて日本仏教の一大潮流となり、現代に生き続けている。・・・}
1 王権神話が伝えるもの
/ケガレ忌避観念の出発点/王権神話を貫くケガレ忌避観念/律令国家のケガレ忌避の限界/律令国家文明化の論理/
2 ケガレ忌避観念の肥大化と物忌み
/物忌みとは何か/観念肥大化の論理と背景/
{・・・すでに述べたように、仏教の密教というかたちによる日本社会内部への浸透は、神宮寺や怨霊信仰という、神仏習合の形態を生み出した。神仏が開かれた系で結合するという在り方は、他方で王権の神祇信仰を支える「浄」「穢」の価値観を絶対化する方向を導き出したのである。王権と貴族の日常規範を規定する論理にまで高め、そうすることで密教化して浸透してゆく仏教に対峙しようとしたのであった。この意味で、ケガレ忌避観念の肥大化は、日本の中に根をおろしはじめた仏教に伍しうる日本の王権の固有の祭祀観念の樹立を意味し、それによって、仏教徒神祇信仰ははじめて対等になり、各々の固有の価値観を堅持したままで共生するという神仏習合の新しい段階を築いたのである。}
3 日本的浄土信仰=『往生要集』の論理
/浄土信仰とは何か/
{・・・そもそも「浄穢」観念は仏教それ自体に含まれている観念である。仏教の故国インドには、独特の種姓制度の根幹に関わる「浄穢」観念が存在しており、仏教はもちろん、それを否定するところから出発しているが、それゆえに「浄穢」の対立概念を悟りと罪を補強する宗教的観念にまで昇華させるという論理構造を持つからである。だが、その高度な宗教的意味づけはそれぞれの地域の宗教的社会的基盤の中で、異なった文脈を持ち始める。
インドで発生した浄土信仰は、阿閦(あしゅく)浄土信仰・薬師浄瑠璃浄土信仰・観音補陀落(ふだらく)浄土信仰・弥勒浄土信仰など多様であったが、日本で最も大きな発展を遂げたのは、阿弥陀西方極楽浄土信仰である。阿弥陀浄土信仰は、紀元1-2世紀のころ、おそらくゾロアスター拝火教やキリスト教を含むメシア思想の影響を受けた大乗仏教の一流派として、西インドに登場し、四世紀までに、『阿弥陀経』『大無量寿経』『観無量寿経』からなる根本経典=『浄土三部経』をもって、独特の教理を構築していた。
その教理を端的にいえば、人間を生まれながら欲望に根ざす五つの大罪を背負った者と見、贖罪のための念仏と修行に励めば、死の際に絶対神である阿弥陀仏が来臨して死者を彼の住居である西方極楽浄土に誘い、救済してくれるというものである。人間を欲望にとらわれた罪深い存在と見、贖罪のための修行を重要視する点では、ブッダとその後の小乗・大乗・密教一般と変わらない。しかし、西方極楽浄土という死後の天国とその主である絶対他者阿弥陀を設定し、贖罪の目的地をそこに定め、死を代償にそこへの救済=往生を主張しているのは、阿弥陀浄土信仰のみである。天国と絶対他者と死を代償とする救済は、確かにキリスト教を含むメシア思想に近似し、永久の寿命を象徴する阿弥陀の光=無量光を強調するところは、ゾロアスター教に酷似している。阿弥陀浄土信仰は、仏教が大乗化する時代に、外来のメシア思想やゾロアスター教を摂取して樹立された仏教の一流派であった。}
/律令時代の浄土信仰/宇多法皇と浄土信仰/『往生要集』の成立/
4 極楽往生を願う人びと
/帝王・貴族たちの浄土信仰/女房たちのすがる浄土信仰/武士たちの浄土信仰/法然・親鸞の時代へ/
第五章 本地垂迹説と中世日本紀
1 仏教の論理に包摂・統合された神々
/本地垂迹説の起源/具体化する本地垂迹説/本地垂迹説の展開/『梁塵秘抄』の讃える本地と垂迹/体系的に記す『諸神本懐集』/
2 王権神話の読みかえと創造
/王権の神々の地盤沈下/密教でつつまれる伊勢神宮/中世日本紀の達成/
{鎌倉末期から南北朝を経て室町時代に及ぶ、13世紀後半から15世紀にかけての時代は、全国の主な神社がそれぞれの立場から記紀神話を密教化してゆく時代である。いわゆる両部(りょうぶ)神道はその論理の結実であり、それらは一括して中世日本紀といわれる。密教系の僧がこの動きを促したことは言うまでもないが、その作用のもとに各神社の神官自体が密教を受け入れて、両部神道をさまざまな形で構築してゆく。・・・}
3 王朝国家の危機のなかで
//平安後期の地殻変動/王権に浸透する本地垂迹説/中世日本紀を編み出す王権と寺社/庶民世界に広がる本地垂迹説/神仏習合思想から日本型合理主義思想へ/
結 普遍宗教と基層信仰の関係をめぐって
/普遍宗教としての仏教/基層信仰としての神祇信仰/キリスト教とゲルマン・ケルト信仰/日本における神仏習合の特質/さまざまな宗教複合の世界へ/
主要参考文献
あとがき
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